「アラハバードの農村開発の現場で働くということ」
アラハバードの農村はインドでも特に伝統的な階級社会を有している土地柄である。古代から続くカースト制度は、社会的な統合性を保つため、単に職業を分業させたが、代々つづく職業の世襲により、職業は氏名(ジャーティ)と切り離せない身分となり、格差が生じることになったという説がある。職業により家柄と氏名のイメージが決まり、それに縛られなくなった今も、それは個人のアイデンティティーとなっている。今でも、高カーストの人が低カーストの人と食事を共にすることはほぼない。「カースト=家柄=身のふるまいや話し方、服装」という方程式は、至るところで見られる。それは、自分と周りの人間を位置づけ、また、他の人をステレオタイプに分類することを促している。そして、それがアラハバードの農村社会のバランスを保っているようである。
しかし、近年のインド経済の勃興に伴い、テレビなどのマスメディアも普及し、多くの若者が近代的な服装をし、今までの古い慣習を脱ぎ捨て、従来とは異なった活躍を夢見るようになってきている。ヒンディー映画で貧しい家庭出身の青年が、都会で大活躍する姿が描かれ、前大統領・アブドゥル・カラム氏や、元首相(故)チャンドラ・シェカー・シン氏が、学問や政治で努力して貧しい家庭から国を率いるリーダーとなった話、なども盛んに取りざたされている。
私たちが主に一緒に働いているのは、不可触民を含む階級の低い農村出身の人たちである。土地も1ヘクタール以下の耕作者が殆どで、インドの農村で一番貧しい人の割合の多い土地なし農業労働者も多くいる。女性の社会的地位も低い。年上の男性にはサリーで顔を隠さなければ礼を失するという慣習がある。結婚持参金(ダウリ)は非常に高額で、女子のいる家庭の家計を圧迫し、差別や女児殺しも少なくない(人口の男女の比率に見られる)。こうした文化は意図せず家庭や学校社会を通して子どもたちに伝えられている。強い階級社会は、汚職や士気喪失、足の引っ張り合いや、成功者への嫉妬等を育んで来た。その様子は至るところに見られる。
そういう文化の中で育ってきた同僚、事業対象地の農村住民は、目上の人に対しては概しておとなしく、受身であり、怯えや媚が見受けられる。しかし目下の人に対しては、顎で人を使い、仕事をサボりがちになり、自分をとにかく強く見せようとするのだ。仕事上で失敗を犯せば、思いつく限りの自己弁護を必死で試みる。そういう彼らの心の中にあるものに触れると、彼らの育ってきた厳しい環境を思わずにいられない。
人材育成を中心とした農村開発事業を進めるにあたって、彼らとの有効なチームワークを築くためには、「友達すぎてもだめ」、しかし「トップダウンだけでは根っこは何も変わらない」ということが言える。単に接し方のバランスをとることではなく、一番大事なのは、「私はここの未来のことを一緒に考えているあなたの同僚だ。あなたは本当に真剣に考えているのか」という気概がなければ、人は動かないし、外国人の私たちが入っている意味もない。小手先の技術だけでは続かない。後に何も残らない。
今まで、仕事場ではただの一労働者だった彼ら。しかし、継続教育学部では彼らの育ってきた殻から一歩抜け出し、様々な背景から集まってきている集団の中で、一人の人間、一人の仲間として、自分を自覚し、他人を理解する機会を経験する。 人は期待に答え、純粋により良いものを求めることで、古い自分を脱ぎ捨てて成長する。それは、彼らだけでなく、私自身に言えることである。
最近は年を重ねるにつれ、学部の中でも先輩になってきた私。これまでとは異なる人材育成のアプローチが必要になってきている。「大いに期待し、心から信じ、大いに認め、大いに刺激しあう」ことで、彼らが自由な発想とチャレンジ精神をもって活躍できる場をつくり、「何も期待されない、信じてももらえない、ただ、自分に与えられた役割をこなすだけ」という環境を払拭していきたい。それには、つねに自分の心をも見つめていなければ到底できないことだ。
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